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平成シニア物語  水仙 最終章 [平成シニア物語]

 十五年の歳月が流れた。亜紀の毎日は充実し家庭の雑事に追われる
こともなく、必死で仕事に取り組んだ。
六年目には小さいながらも自分の事所も持てた。
 輝美は教師の卓と結婚し、一人息子とずっと一緒に暮らしてきた康と
四人で幸せな時を過ごしていた。
 この十五年の間亜紀は一度も康や輝美にあったことはなかった。
嫌会えなかった。
 自分が考えていたより百倍も千倍も辛かった仕事との取り組み、それ
よりももっと亜紀を苦しめたのは、絶ち切ったはずの康と輝美への思慕
だった。常に亜紀のことだけを考え、自分の好きなようにさせてくれた康
の深い愛にやっと気付いた。
 血肉を分けた輝美への母性にもやっと目覚め、当たり前のように傍に
いた幸せというものを、自分の都合のみで手放してしまって初めて知った
亜紀の深い苦悩だった。
 でもそれは当然亜紀一人で乗り越えるべきことなのだ。

 大学の卒業式、桜吹雪のなかを楽しげに校門を出て来た康と輝美を
物陰からそっと見つめた日。

 結婚式の日教会の前で大勢の人たちに祝福されて、腕を組んで階段を
下りて来た卓と輝美を満足そうに出迎えている康の姿も確かめた。

 退院の日小さな赤ん坊を大切そうに抱いた輝美に寄り添う康と卓
の姿が涙にうるんで見えなかった秋の日。

 康が花束に埋もれてご機嫌で帰宅した定年退職の日。家の中に笑い声
が溢れその灯は遅くまで消えることはなかった。

 遠く離れていても孤独の中でも大切な時には亜紀はいつも家族と共に
いた。心の中でじっと見守っていた。そして本来ならそこにいるはずの自分
を想像した。亜紀は体の震えが止まらないほどの後悔の念にかられた。
 こんな人の世で最高の幸せと引き換えに、自分の手にしたものの価値を
改めて考えた。でも彼女に後戻りが出来る訳もなく、ますます仕事に没頭
した年月だった。


 部屋の前の小さな坪庭にも白い水仙の花が見えた。
 昔と少しも変わってないと思った康は、よく見ると白髪交じりの少し薄く
なった頭。男性にしては柔和な顔に深く刻まれたしわが目立った。
 亜紀は胸のふさがる思いでその顔を見つめた。彼の深い苦悩と寂寞と
した思いをその顔は物語っているように亜紀には見えた。
 「ごめんなさい」亜紀は思わず座布団から下りて畳に頭を擦り付けた。
あふれる涙は止めどなく流れた。

 康は亜紀の姿を黙って見つめていた。知り合って四十年の歳月が甦って
きた。自分は亜紀のことを想い続けた。自分の気持ちを殺し彼女の思い
通りにさせたことが本当の亜紀の幸せになったのだろうか。
 今目の前にいる亜紀は一回り小さくなって、若き日いつも何かに挑む
ように高いところを見つめていたその目から大粒の涙があふれている。
 亜紀は「ごめんなさい」の一言を言うために今日ここに来たのだと康は
思った。でもそれは決して後悔の涙であってはならぬ。別れて過ごした
年月を無駄にしてはならぬ。

 康は立ちあがると泣き崩れている亜紀を優しく座らせた。
彼に言いたいことは山ほどあった。でも今更それを言ってどうなる。
亜紀は亜紀なりに自分の思いとおり仕事を成就していたし、康も自分の
仕事は立派に勤め終え満足している。
 これから先今まで出来なかったことを取り戻す時間は二人には充分ある。
 康には愛しい亜紀の笑顔を毎日見たいという希み。亜紀だって暖かい
康の胸が恋しくない訳がない。
 仕事という枠から解き放たれてのんびり歩くこれからの日々。
いつか輝美だってきっと分かってくれるだろう。
 康はなんだか嬉しくなってきた。


「食事にしよう。ここの料理はなかなか美味しいんだよ。」
 康は何事もなかったように女将を呼んだ。
 
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平成シニア物語  水仙 3 [平成シニア物語]

 輝美が友だちと旅行に出かけて二人だけになった夜亜紀は決意した。
そして日頃自分の考えていることを康に聞いて欲しいと思った。
亜紀がそのことを切り出した時、康には彼女の考えていることなどとっくに
分かっていた。
 ゆっくりと食事をした後二人は二階のベランダに出て椅子に座った。
晩秋の空は深い藍色に沈んで、星がいっぱい瞬き風が冷たかった。
 ゆくりなくも二人は若いころに訪ねたあちこちの美しい星空を思い出した。
亜紀は少し胸が痛んだ。
「美しい星空ね、涙が出そう。」康も同じことを考えていたらしく大きく頷いた。
「今こんな話したくないけどやっぱり聞いて欲しい。貴方も気付いていると
思うけど私もっと仕事がしたい。輝美も二十歳になったことだし会社を辞
めて独立したいと考えています。一つだけ言っておきたいことこれは私の
我儘で、貴方にとっては納得のいかないことだということも分かっています。
私今でも貴方のこと好きだし、男性としても輝美の父親としても尊敬してい
ます。でも結婚生活はもう続けられません。」亜紀は大きく溜息をついた。
「私はこれからの人生一人になって、仕事のことだけ考えて自分の能力の
限り自由に生きたいのです。」
 冷たい風がひと吹きベランダを通り抜けた。
「今のままでも、結婚したままでも出来る....と貴方はきっと言いたいでしょう。
でも家庭という枠からも逃れたい私の気持ちは分かってもらえないと思う。」
 必死で話しているうちに訳もなく涙が溢れてきて亜紀はもう自分を見失いそ
うだった。
 康には驚いた様子もなく黙って亜紀の言葉に耳を傾けていた。そして一瞬
天を仰ぎ落ち着いた様子で重い口を開いた。
「亜紀の言いたいことはよく分かったよ。思い返してみると君は若い時から
夫より子供より家庭より、会社仕事の方が好きだった様な気がするよ。
 輝美を大切に育ててくれたとは思っているが、でも今思えばそれは義務
感のようにみえた。君は心をこめて輝美を抱きしめたことがあるかい。命に
かえてもいいと思ったことはあるかい。幸い輝美は大病もせずにお義父さん
お義母さんに愛されて、幸せに大きくなった。僕は生まれたばかりの輝美を
この手で抱いた時、本当に嬉しかった、愛おしかった。そしてこの可愛い子
を僕に抱かせてくれた君のことを心底愛しいと思ったものだ。どんなことが
あっても生涯、この二人を守り抜くと心に誓った。この気持ちに今も変りは
ない。僕が二人目の子供を望んで、君が乗り気でなかったと時も亜紀がそ
れでいいなら、僕は輝美がいるだけでも幸せだと思おうと心に決めた。」
 低いけれどはっきりとした康の重い言葉は、亜紀の胸の深い深いところ
をきりきりと突きさした。
 若かった自分の、我儘に嫌悪を感じていたであろう康の言葉にただの一
つも間違いのないのが悲しかった。
 康は亜紀の申し出をきっと拒みはしない。いつもそうだった。今は亜紀も
それを本当に望んでいるのに、この切ない辛さは何なのか。康の顔を真っ
直ぐに見られないのはどうしてか。
 ついに亜紀は号泣しくず折れた。
 康は優しく亜紀を抱き起こすと、涙でいっぱいになった目を閉じて、はっ
きりと言った。
「いいよ亜紀、人生まだ半ばだ。自分の目標をしっかり持って生きていける
なんて素晴らしいことだよ。本当は僕の側でそれを全うしてくれたらどんな
にいいだろうと思う。だけど今の君には家庭も僕も邪魔なだけなんだね。」
 蒼い空から大きな星がひとつ空を切って流れた。

 父母の話を聞いた輝美は「私にはお母さんの言い分は通らない。納得も
出来ないし理解したいとも思わない。私今は頭の中がまっ白で自分でもよ
く分からないけど、一つだけはっきりしていること、今のお母さんには私も
お父さんも必要ない邪魔なだけ.....と言うことでしょう。私小さい時から思っ
ていたことがあるの。私はおじいちゃん、おばあちゃんの子供かなあ。
大事な時いつも側にいないお母さんって何者? でも大きくなって分かった
あの人は何より仕事が好きで、自分が好きで自信たっぷりで、こんなに
素敵なお父さんよりも、私よりも仕事が一番大切なんだって。仕事の話を
している時はいつも目がキラキラしていた。私その時お母さんのこと捨て
ちゃった。ただのエゴイストじゃないの。」
 輝美はぞっとするような冷たい目で亜紀を見据えた。
「お父さんがそれでいいなら私に言い分はありません。私のことを考えて
くれているとは思えないけれど、私ももう大人だから自分でやっていける
でも私はお父さんの側にいたい。そして二人の方が今までよりもっともっと
いい毎日が送れそうな気がするよ。」

 三カ月が過ぎ木枯らしの吹く寒い日、亜紀は家を出た。
泣いて「もう一度考え直して!!」と迫る母にも、何も言わずに亜紀を睨みつ
けていた父にも、亜紀の生き方を理解してもらえそうにはなかった。
 





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平成シニア物語 水仙  2 [平成シニア物語]

 康と亜紀は入社式の日に出会った。研修期間の二カ月も一緒でに過ごした。
康はいわゆる一目惚れで、秘かに亜紀と話すチャンスを狙っていた。しかし
二人が言葉を交わすこともなく、配属は希望通り康は営業、亜紀は経理と全く
別の所に決まった。
 新入社員は何かにつけて忙しく、二人は仕事に没頭していた。
 そんなある朝会社に向かう道で二人は偶然出会った。康はこのチャンスを
逃してはと積極的に話しかけ、その後やっとのことで二人で会うところまでこぎ
つけた。亜紀も康の誠実さ、やさしさに心を許すようになり、恋が始まった。
 康はすぐにでも結婚しょうと言ったが、亜紀には学生時代から会計士になる
夢があり、仕事を続けたい気持ちが強かった。
 しかし二年経った頃康の情熱に負けて、二十四歳の時みんなに祝福されて
結婚した。
 康は高校までを福岡で過ごした。父母とも教師で兄と二人円満な家庭で大
切に育てられたようだった。
 亜紀は生まれも育ちも東京の下町で、妹が一人、父は三代続く酒屋を営ん
でいた。
 新居は亜紀の実家からそう遠くない所に構えた。結婚しても仕事を続けたい
意思の強かった亜紀は将来子供が出来たら.....と両親をあてにしているとこ
ろがあった。
 その子供が出来るまで二人は理想的な結婚生活を送っていた。仕事も順
調で亜紀も勉強の合間を見つけては二人で大好きな星をみに出かけた。
 冷たく光る北の真冬の鮮やかな星。いっぱいの星を散りばめた秋の高原。
海の町から眺めた銀河。その一つ一つが二人の思い出となっていつまでも
胸の中に煌めいていた。
 長女の輝美が生まれてからも亜紀の思惑通り父母は孫の面倒を一手に引
き受けてくれて、亜紀は今までの生活と何ら変わりはないと思いこんでいた。
 しかしこの小さな家族が一人増えたことで康と亜紀の生活は一変した。
康は輝美が生まれたことを喜び、亜紀の想像以上にいいパパ振りを発揮して
彼女を助けてくれた。その可愛がりようは亜紀が呆れるほどで、忙しい仕事
をこなしつつ、精いっぱい頑張ってくれた。
 そんな中でもやはり亜紀の負担は重く、仕事や家事育児に追われる生活
が続き、亜紀はいつしか心の余裕を失い始めていた。
 こんな好条件の中で、働き続けている仲間など一人もいないことにこの時
の亜紀は気がついていなかった。
 自分の時間などひとつもない。亜紀のなかに少しづつ不満がたまっていた。
 
亜紀は子供の時から長女として家業の忙しい両親を助けてよく働いた。
商売が好きなのではと考えた両親は、高校を出たら店の後を継いでい欲し
いと願っていたが、亜紀はさっさと大学の経済学部に入った。
 彼女は何も言わなかったが、一日中コマネズミのように働く商売なんて絶
対に嫌だと思っていた。そして自分の一生の仕事を見つけて結婚よりも自立
して自分の思うように生きる人生に憧れていた。
 
 輝美が三才になり、少し手が離れてやれやれと思った頃、康はもう一人
子供が欲しいと言いだした。生活に困る訳でもないので亜紀に家庭に入って
欲しいと。
 康はまだ亜紀の仕事に対する情熱を甘くみていた。
輝美のことは可愛くて亜紀は母としての幸せはせいいっぱい貰っていた。
しかし仕事を大切に考えていた亜紀には次の子供のことなど考えたことも
なかった。亜紀はうろたえた。何故どうして。
 考えてみればこの頃から康と亜紀の間に微妙な心のづれが出来たのでは
なかったろうか。
 結局亜紀は仕事も止めなかったし、子供も産まなかった。康も強いて自分
の意思を通そうともしなかった。
 輝美が成長するにつれ亜紀も経理部では重要な職務につきいよいよ忙し
くなり、康も責任のある地位につき、家の中のことは殆ど両親に任せきりに
なった。そんな父母のもとでも、輝美は祖父母の愛情を一身に受けて素直で
いい娘に育った。
 ただ彼女の前にはいつも忙しく働いている両親しかいなかった。
 
時の流れの中でいつしか亜紀は、仕事をしている時が一番楽しく充実して
いて、家庭での諸々を疎ましく思っている自分に気が付いていた。
 実家の酒店は妹夫婦が跡を継ぎ今はコンビニとなり、父母は仲良く老いて
幸せな日々を送っている。
 康は亜紀がどんなに仕事を優先させても、そこが彼女のいいところだと
大らかに見守っていた。


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平成シニア物語  水仙  1 [平成シニア物語]

 「元気ですか」
時候の挨拶もなく始まるその手紙には、亜紀が彼らを案じていたように、康も
亜紀の十五年から目を離したことはなかったこと。
輝美の結婚式だけは知らせてやりたいと思ったが、輝美が頑として反対した
こと。
 輝美も今は子供の親となった。自分は決して母を許せず会いたくもないが
お父さんが会うのは止めない。退職して暇になったのだから二人で旅にでも
出かけたら.....と言ってくれたこと。
など康が迷った末にこの手紙を出す決意をした理由が書かれていた。
亜紀は涙で手紙の文字が見えなかった。
 会いたい直ぐにでも、と思うその裏で我儘勝手をしてきた自分にその資格
はないと考える冷静な自分がいた。康に対しては嫌な思いなど一つもない。
今となってはただ懐かしい人だった。会って今までの自分の行為を謝るだけ
でいい....そう思った。
 亜紀は康の優しさに賭けた。今会いたいと言ってくれるその言葉を信じよう
と思った。
 心をこめて会いたいと返信した。直ぐに康が場所と日時を知らせて来た。
最後に温泉でのんびり美味しいものでも食べましょう。と小さく書いてあった。

 冬の旅は寂しい。でも今日は何だか暖かい。見知らぬ街の小さい駅に下り
立って亜紀は思わず呟いた。
 この駅で下りたのは手を取ってゆっくり歩く親子らしい二人と亜紀だけ。
ひっそりした駅前通りを真っ直ぐ歩いて、二つ目の角を曲がると康のメモに
ある「美よし」という旅館はすぐに分かった。
 看板がなければ旅館と気がつかない位の二階家で玄関の格子戸を開け
ると思ったより広い板間があり、しっかり拭きこまれた床は光っている。
「はーい」
亜紀が声をかける前に、藍染めの着物を着た上品な女性が出て来て
「いらっしゃいませ。若山様ですね。」
とにこやかに迎えた。「はい」亜紀は応えてもう一度その女性を見た。
亜紀と同い年くらいだ、女将た゜ろうか。
「どうぞご案内いたします」
と亜紀の前に立った。
 廊下伝いの中庭に夕灯りが落ちて敷石が光っている。その一隅に寄り添
うように水仙の白い花とすくっとたった緑の葉が見えた。
「水仙きれいですね私の好きな花です。」
つい言ってしまった亜紀に
「そうですね」
大きく頷いて女性が応えた。
 小さいけれど落ち着いたこの宿を亜紀はいかにも康らしいと思った。
「お着きになりました。」
女性が声をかけた。部屋は二間続きの和室で庭に面した広縁のソファに
康が座っていた。十五年目に見る康の顔だった。彼はゆっくり立ち上がると
「ここすぐに分かっただろう。」
と大きな声で言って手を上げた。その声を亜紀は懐かしいと思った。
「ええ、早かったのですね。」
亜紀は康に会ったらもう少し気持ちが高ぶって、取り乱しそうで心配して
いたのだが、案外普通でいられたのが不思議だった。
「すぐお食事になさいますか。」
女性はそう言った。他に宿泊者の気配もない。
「少しゆっくりしたいから後でいいよ。」
女性は小さく会釈をして出ていった。
 亜紀はソファにかけずに座卓の前に座ると大きく一つ息を吐いた。
「元気そうだなあ、来てくれて有難う。随分ひさしぶりだなあ。」
康は機嫌が好さそうで優しい笑顔で亜紀を見ている。その顔は昔と変わら
ないことが又亜紀を苦しくさせた。
「静かでいいお宿ですね。さっきの方が女将さんですの。」
関係のないことを言いつつ、亜紀は今更ながらに重苦しく沈んでいく自分
の気持を持て余していた。

 二人は若き日の二十年間を共に過ごした元夫婦だった。
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平成シニア物語  夕あかり [平成シニア物語]

 蝉しぐれの降りしきる庭に面した廊下の端に座って、考え込んでいるような
洸一の背中が見える。
 文はキッチンで夕食の支度をしながら「今日はどう?楽しかったですか。」と
大きな声で話しかけた。その声に洸一が振り返った。
 殆ど白く薄くなった頭髪、少しむくんだ艶のない顔、緩慢な動作。文は彼も
年とったなあ、とつい思ってしまった。そして八十だもの....と心の中で呟く。
「今日は歌歌ったんだよ。次から次へといっぱい歌った。皆楽しそうだったけど
私は疲れたよ。」洸一はひとり言のように呟いて少し笑った。
 今日は洸一が二カ月前から行き始めたデイサービスの日だった。最初は嫌
がっていたが、何度か行くうちに少し打ち解けたらしくて、この頃ではその日が
くると割合上機嫌で、迎えの車に乗った。
 洸一は二十年ほど前から糖尿病を患っていたが、最近少し症状が進んだ
ようで足も弱くなり、文も少し負担を感じるようになっていた。
様子を知った知人の勧めで介護の申請をして何とか受けることが出来るよう
になったところだった。
 おかげで文も長く続けて来たヨガ体操の教室にまた行けるようになり、少し
心の余裕も出てきた。
 それぞれ家庭を持った二人の娘が近くに住んで、何かというとすぐ助け舟を
出してくれるのが、文には心強くいつも感謝していた。
「ねえ、食事まで少し横になったらどうです」文は優しく手を貸して洸一を居間
のソファにつれてきた。
 二人で見るともなくテレビを見ているうちに、洸一は小さく寝息をたてている。
ディサービスはやっぱり気を使うから疲れるのだろうと、文はタオルケットを
そっとかけて、しげしげと彼の顔を覗き込んだ。
 そこには若かったころのきりっとした洸一の面影はなく、安心しきっている
幼子のようなあどけないおじいさんがいた。 
じっとその顔をみている文の脳裡に突然洸一と歩いてきた山あり谷ありの
激動の五十余年が甦ってきた。

 洸一は若い時、文に一言の相談もなく転職し、次にはサラリーマン生活を
捨て突然の自営業、果ては共同経営者に裏切られて倒産、今まで築いてき
たすべてのものを失った。
 洸一はその時五十歳を越えたところだった。文はうろたえた。でもすぐ立ち
上がった。洸一を励まし、再就職した彼と一緒に文もスーパのパートに出た。
裕福な家で大切に育てられた文が、大げさに言えば生れて初めて世間の
荒波に放り出された瞬間であった。
 自宅も手放し、一変した厳しい生活にも文は一言も洸一を責めることはな
かった。いやできなかったのだ。

 文は二十歳の頃勤めていた会社の先輩に恋をした。ハンサムで優しくて
仕事も出来た。彼もすぐ文の気持ちを受け入れてくれて、楽しい青春だった。
文は当然彼と結婚して幸せな家庭を作ることを夢見ていた。それなのに二年
が過ぎた頃、彼の一方的な言い分で、彼女は訳のわからぬまま失恋し、深く
傷つき、何も考えられず人生が終わってしまったような虚しい日々を送って
いた。
 そして半年、父母の薦めで洸一と見合いをし、数回逢っただけで結婚した。
大好きな彼との夢が破れた今、文にとって結婚相手は正直誰でもよかった。
 ただ若い文にとって結婚はこれからの人生を歩む唯一の手段としか思え
なかった。親の薦める相手なら何の責任も持たなくていいし丁度よかった。
 幸い洸一は美しい文を一目で気に入った。
実直で優しい彼は結婚しても文への想いを変わることなくもち続けていた。
 そんな彼の優しさにも文はなかなか心を開くことが出来なかった。彼女の
中にはいつまでも一人の人の面影が住み続けていたから。
 長い月日が流れた。子供も生れ温厚な洸一との暮らしの中でごく自然に
二人の間に夫婦としての絆が出来、文も洸一のことを空気のように感じる
ようになっていた。

 洸一が何もかもなくした時初めて文は、理不尽しも思える彼の行為に文句
一つ言うことが出来ない自分に納得し、自分をがんじがらめにしている者の
正体に気付いた。
洸一の人格を全く無視して、ただ自分の身勝手だけで結婚してしまったことが
罪悪のように思えて、無意識のうちに滓のようなものとなって文の心の奥底
に沈みこんでしまっていたのかもしれない。
 文は今こそこれまでの自分の思いあがった心の狭さを、洸一に詫びるべき時
だと本能的に思った。そしてこれまでの自分を恥じ深く深く反省した。

 文は必死で働き洸一を助けることでようやく素直に自分をみつめることが
できるようになっていった。長い間もやもやと胸の奥底に引っかかっていたも
のがやっと、少しづづ融けていくような気がした。
 しかしその気持ちを言葉で洸一に伝えることはどうしても出来なかった。

 結婚以来抱えていた文の心のわだかまり、いい加減さに洸一は気付いていた
た゜ろうか。夫婦だもの五十年も一緒にいれば、多分何度かそぐわないものを
感じたかもしれない。洸一にしては無鉄砲だと思われた、若い日の行状だって
今思えは文に原因があったのかもしれないのだ。
 
 あれから二十年余り今文は心の底から洸一を想い自分の気持をせいいっぱい
そそいできた。年を取るにつれて出て来た彼の短気や我儘も笑って受け入れる
ことが出来た。若かった時の身勝手な自分を許してほしいと常に思った。

 文は長い追憶から覚めてわれにかえるとキッチンに立った。
 いつの間にかほの暗くなった庭に、茜色の夕あかりがかすかに揺れていた。
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平成シニア物語  春隣  最終章 [平成シニア物語]

 その日時間の許す限り草子は待った。朝公園に圭吾が来なかったことは
今まで一度もなかった。
 草子は昼休みを待ちかねて圭吾に電話した。呼び出し音が鳴るばかりで
応答がない。昨日の朝は変わり無かったのにどうしたのだろう。草子の心配
はどんどん大きくなって悪いことばかりが浮かんでくる。
 仕事が終わると草子の足は真っ直ぐ圭吾の家に向かっていた。行っていい
のかどうか考える余裕はなかった。ただ圭吾の様子が知りたい一心だった。
 チャイムを押した。初めて訪ねて来た圭吾の家は森閑として人のいる気配
がない。どうしょう、考え込んでいると
「柴田さんのお知り合いですか。」
と隣の家の庭から女性の声がした。
「はい。柴田さんお留守でしょうか。」
女性はちょっと考えてから
「実は昨夜体調を悪くなさって今入院しておられます。」
と言った。草子は心臓が止まるほど驚いた。
「どんなご様子なのでしょう。」
「詳しいことは分かりませんが、胸を打ったとかでご自分で救急車を呼ばれ
たようだから、大事には至らないと思いますよ。」
親切な隣人はそう言って、圭吾が市民病院に入院したことを教えてくれた。
 家まで来てよかった。草子は丁寧に女性にお礼を言うと、居ても立っても
いられず、その足で病院に向かった。
 今まで体調が悪い話など圭吾から一度も聞いたことはなかったのに。
隣人の言葉に一安心しつつも、圭吾の様子を自分の目で確かめるまでは
落ち着かなかった。
 ナースセンターで聞いた病室のドアを開けると、二人部屋の一方には誰も
いなくて、奥のベットに圭吾が眠っていた。その顔を見た途端、草子はもう
涙が止まらなかった。「よかった、本当によかった。」
 そっと椅子に座って圭吾を見つめる。顔色も良いし寝息も普通で病人には
見えない。早く病院に来たのが良かったのだろう。
 食事の時間になってやっと圭吾が目を覚ました。草子を見つけると驚いて
起き上がろうとする。草子は目で制して「じっとしていて下さい。」とやさしく
言って言葉を続けた。
「様子は聞いてきました。脚立から落ちて胸を打って肋骨に二本もひびが
はいったそうですね。」ここで草子はくっくっと小さく笑った。「ごめんなさい。
でも大怪我にならなくてよかった。私柴田さんておちついた方だと思っていた
から。今朝公園に見えなかったから本当に心配したのです。最悪のことまで
考えて、仕事もしないで一日おろおろしていました。お宅に伺ってお隣の方
から事情をきいて、やっと一息つきました。でも柴田さんのお顔を見るまでは
と、つい後先も考えずにここまで来てしまいました。ご迷惑ではなかったです
か。」草子はほっと一息ついて安堵の笑顔で圭吾の顔をのぞきこんだ。
 圭吾は動く草子の口元をじっと見ていた。胸がじんと熱くなって不覚にも涙
がこぼれそうになって横を向いた。草子の一途なおもいがじーと胸に染みた。
「迷惑だなんて。」圭吾の声は上ずっていた。まさか草子が病院へきてくれる
なんて思ってもみなかった。
 昨夜圭吾は古い本を探しに納戸へ入った。何冊かの本を抱えて脚立から
下りる時足を滑らせて転げ落ち、したたかに胸を打った。一瞬呼吸が止まる
ほどの痛みがあり、その後息をする度に胸が痛んだ。少し大げさかと思いつ
つも自分で救急車を頼んだ。その時飛び出してきた隣人に事情を話した。
 病院ではレントゲンなど検査の結果、内臓に損傷がないことが分かり十日
ほどの入院で済みそうだった。ちらっと草子に連絡しようかとも思ったが思い
留まった。
「どうしてすぐ知らせてくれなかったのです?すぐ分かることなのに。」
「心配かけるから.....」
「何も知らないほうが心配です。」
「悪かったよごめん。さっき君の顔見た時本当に驚いた。いや嬉しかった、
夢をみているのかと思った。」二人の話はいつまでも続いた。
 この日面会時間が終わっても草子はしばらく圭吾の側にいた。

 圭吾が退院する日まで、草子は毎日やって来た。必要な買い物をしてきた
り、食事や、着替えを手伝ったり、ごく自然な形で洗濯もせっせとしてきた。
 何くれとなく圭吾の世話をしていると、いつもより彼を身近に感じて草子は
幸せな気持ちになった。
 圭吾も今回のことは子供たちにも知らせなかったので、草子以外は訪ねて
来る人もなく、仕事が終わると飛んで来る草子を心待ちしていた。甘えては
いけないと思いつつ、気持ちのどこかで甘えたがっている自分に、圭吾は
とっくに気が付いていた。

 十日もすると圭吾はもうすっかり元気になって、退院が決まった。
 その日は草子が車で来てくれるという。圭吾は素直にその好意を受け入
れた。
「おめでとうございます。本当によかったですね。」草子は笑顔で言った。
「有難う、草子さんには本当にお世話になりました。助かりました。このお礼
はどうしたらいいのかなあ。」
 車が圭吾の家に着くと草子は手際よく、それほど多くはない荷物を玄関ま
で運んで言った。
「柴田さん、朝のウォーキングはまだ無理だから、これでしばらく会えないん
てすね。」
 草子はこのまま帰るつもりのようだ。上がって行けといっても、多分彼女は
そうしないだろうと圭吾は思った。
「そうだね。でも今回のお礼はきちっとしたいから、一度ゆっくり遊びに来て
下さい。また連絡するからね。本当に有難う。」
「お礼なんていいんです。私は自分のしたいようにしただけだから。」
 やさしく圭吾を見つめる草子がそこにいた。
 その時圭吾は感謝の気持ちと、草子へのあふれる思いを抑えることが出
来なかった。圭吾は眼の前の草子をそっと抱きしめた。
 驚いた草子は一瞬体を引き離そうとしたが、圭吾は渾身の力をこめてもう
一度草子を強く抱きしめた。
 その腕の中で草子は高鳴る自分の心臓の音を聞いた。顔がほてり全身の
力が抜けて行くような感覚の中で、胸の底からこみあげてくる圭吾への切な
る想いが、体いっぱいに広がっていくのを感じていた。
 草子は静かにこぼれる涙の中にいた。

 圭吾が元気になって二人はまたいつものようにウォーキングを楽しむよう
になった。並んで歩く二人の様子は以前と変わらなかったが、圭吾の入院を
経てお互いを思う気持ちはずっと深くなっていた。
 圭吾は一つの決意をしていた。機が熟して、いつか草子が承知してくれる
なら結婚しよう。
 例えそれが一年先でも二年でも、生ある限りその日を静かに待とうと。
 公園の桜はいつしか葉桜になっていた。
 「お早うございます。」草子の元気な笑顔が見えた。
 「お早う。」大きな声で応えながら圭吾は高く高く手を振った。
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平成シニア物語  春隣  絆 [平成シニア物語]

 花の季節になったのに圭吾は今ひとつ元気がない。今年は一年生になる
孫のはなのためにランドセルを買う約束をしていた。
 隣県に住んでいる長男が親子三人でやって来ることになっており楽しみに
待っていたのに、肝心のはながインフルエンザにかかって、行けなくなったと
電話が来た。
 圭吾ははなの好きなのを買いなさいと、現金を送ったのだが何だか虚しい
気がした。三人の孫ではなはたった一人の女の子、一年に数回しか会うこと
もなかったが、もう可愛くてどうしょうもなかった。
 真っ赤なランドセルを背負った、にこにこ顔のはなの写真が送られてきた
時はつい嬉しくて、ゆきの遺影のところに飛んでいった。
 東京にいる次男のところは男孫二人で、ゆきが亡くなってからは、正月に
会えるくらいだった。
 
 圭吾は庭に出た。真っ青な空にゆるやかな風が吹いていて、今朝会った
草子の笑顔が浮かんだ。
 城のある街に行ってから、お互い少し前に進んだ感じはあったが、それ以
上のことはないまま今まで来た。圭吾が行動を起こさない限り草子の方から
歩み寄る気配はなかった。毎日のんびりと暮している自分と違って草子には
仕事もあるし父もいる忙しい身だ。

 小雨が降っていたが傘をさす程ではない。圭吾は元気に家を飛び出した。
散った桜の花びらが濡れた歩道に張り付いて、踏むのがためらわれる。
 草子は白いウインドブレーカを着て待っていた。
「雨たいしたことなくてよかったですね。」「大雨にならなくて良かったね。」
 二人は並んで歩き出したが、圭吾はとうとうはなの写真を取り出して草子に
見せた。
「孫のはなです。今年一年生になりました。」「まあなんて可愛いいんでしょう
柴田さんおじいちゃんですもんね。」
 一人になったけれど圭吾の周りには、家族のぬくもりがあるのを草子は羨
ましい気がした。
「草子さん年度初めで仕事忙しいのでしょう。」「そうてすね。毎年同じことなん
だけど、やっぱり社内もなんとなく落ち着かない感じかな。そうそう今年も若い
後輩が入ってきて、私たちお局組は嫌でも自分の年を再確認せざるを得ない
時期なんです。」草子は笑いながら言った。
「そんなことないですよ。ベテランはもっと自信をもって堂々としていたらいい
んです。それより草子さん今度、美味しいもの食べにいきませんか。仕事ばか
りじゃつまらん。息抜きも大事なんですよ。」
 草子は立ち止って圭吾を見た。
「僕ずっと考えていたんです。一週間に一度、いいえ二週間に一度でも日を決
めて、ここ以外の所で会えないかと。駄目ですか。」畳みかけるように言う彼の
言葉が草子は正直嬉しかった。
 一瞬沈黙の時が流れた。
 草子は歩き出した。彼女の中に自分の気持ちを抑えようとしているもう一人
の自分がいた。これ以上の深い付き合いになるのが怖かった。
 今圭吾によせるほのかな想いが、大きくふくらんでいくのが怖かった。
「草子さん何考えているのですか。考える程のことではないでしょう。あなたの
気持ちのまま返して下さい。あなたの思ったままを。」
「はい」草子は自分の気持ちに素直になろうと思った。
「そうですね。そんなことが出来たら私嬉しいです。」
 圭吾はほっとした。
「じゃあ二人で考えましょう。僕は何時だって自由だから、草子さんの都合のい
い日教えて下さい。」
 雨はすっかりあがって洗われた木々の若芽が薄日に光っている。
 草子はこの季節のように浮き立つような体の軽さを感じて思わず歩を速めた。

 数日後草子から電話が来た。初めてのことだ。今朝会ったのに何だろう。
「もしもしごめんなさい。明日でもよかったのだけど。この前の話、実は会社の
創立記念日の日午後休めそうなんです。いつもは式典のあと行事があるのに
今年はお昼に立食パーティがあって終わりだそうです。」草子の声は弾んで
いた。一刻も早くこのことを圭吾に知らせたい草子の気持ちが伝わってきた。
「わかった。早く知らせてくれて有難う。僕も予定しておくよ。じゃ明日の朝。」
 休日ならいつでも会えるけど圭吾は草子が父と過ごす時間の邪魔はしたく
なかった。だから今度のように平日の午後に会えるのは都合がよかった。
二人でのんびり話が出来る所へ行こう。そして夜は美味しいものご馳走しよう
 その夜圭吾は少し興奮してなかなか寝付けなかった。

 当日圭吾が車で草子の会社の近くまで迎えに行くことになった。草子は着
替えでもして出たいと言ったが、その一刻も圭吾には惜しかった。
 草子は紺のスーツの胸につけたコサージュを外しながやって来た。
「ごんなさい。待たせたでしょう。これから映画に行こうなんて言いだして、私
黙って抜け出して来たんです。」
 朝の草子とは違う美しい草子がいた。盛装して働く女性の魅力いっぱいの
彼女を圭吾は改めて素敵だと思った。
「大丈夫、僕も今来たところです。よく抜けてきてくれました。今夜はゆっくり
できるでしよう。少し足を延ばしてみませんか。」「ええ明日もお休みだし、ど
こへでも。」
 いつもゆきが座っていたところに草子がいる。心に決めて来たつもりでも
圭吾の胸は少し騒いだ。

 街中を抜けて車は高速に乗った。山を切り開いた道は、次々とトンネルが
続く。山側の車窓には桜や椿の花が彩りを添えた春の山が、高みから見下
ろす右手には、ちいさな町並みや工場の煙突が見え、その向こうに広がる
海はただキラキラと光って、草子はしばらくその景色に見入っていた。
 この道は草子も何回も通ったが、自分が運転していると、のんびり車窓を
見ることなどなかった。
「ねえ、桜がいっぱい、椿も、もう若芽もきれい。春真っ盛りですね。」草子は
声を弾ませて圭吾に話しかける。
「草子さん、僕は運転しているんです。そうきょろきょろ出来ません。」
「ごんなさい、そうでした私つい興奮して、柴田さんは前だけ見ていて下さい
私が二人分よく見ておきます。」草子はつい冗舌になる。

 二時間も走って高速を下りた。車は街を通り抜けて春耕を終えた田圃が
広がるのんびりとした田舎道に入った。「あの小さな山に登ります。」圭吾の
言葉通り車はくねくねと頂上に向かって走り、やがて道の両側に満開の桜
並木が開け、花見客が大勢いる広場についた。ここで車を下りると圭吾は
少し裏側の人の少ないベンチに腰を下ろした。
 目の下に小さな街全体が見下ろせた。ため池の水が光り竹藪や民家が
見えた。
「草子さんここが僕の生れた村です。今は市になっていますが、父の転勤
でここを離れる中学までここに住んでいました。」
 草子は目を凝らした。ここで圭吾が生れ、少年期を過ごした。空気がおい
しくて風が優しくて空が真っ青のこの町が、いかにも彼にふさわしい気がし
た。「ねえずっと向こうに鉄塔がみえるでしょう。ホラ赤い屋根、あれが昔の
役場なんですよ。その少し向こう、土塀に囲まれた家見えますか。」圭吾の
目の先を草子はしっかりととらえた。
「僕の育った家はもうないんだけど、あの家が母の実家、滅多にあいませ
んが、今も従妹たちが住んでいます。」
 草子は生れて今までずっと同じ街にいた。圭吾にはこんなに素晴らしい
故郷があったのだととても羨ましい気がした。
「僕はここが大好きなんです。出張の途中でもよくここにきて眺めました。」
 春の夕日はその家の辺りに浮かぶ雲を薄紅いろに照らしていた。

 夕食は天麩羅屋さんへ、カウンターに座るとその場で、土地の野菜や、
魚介類、何より一番は、昔からこの町が誇る筍。真っ白で柔らかくて圭吾は
これ一番だと自慢げに草子に勧めた。土の香りが口いっぱいに広がった。

 帰りの道は遠く眼下に街の灯りが見えるだけで、山も海も闇の中にあった。
車に揺られて言葉少なくなった二人だったが、草子は圭吾の原点に触れた
気がして、彼への慕わしい感情が胸底に静かに満ちてくるのを感じていた。
 圭吾も又一歩草子に近づいた。そうすることを草子も望んでくれているよう
に思えて心が安らいだ。

 星がまたたいている春の宵の高速道を二人の車は軽やかに走った。
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平成シニア物語  春隣 父と娘 [平成シニア物語]

 車は桜並木を快適に走る。この坂を登り切った所に草子の父のいる老人
施設「あけぼの園」がある。
 草子は一年前までは父と二人で生活していた。父は買い物に出かけたり
食事の準備や掃除など簡単な家事はよく手伝ってくれた。ただ八十歳を過
ぎた頃から時々弱音を吐くようになった。それでも草子に心配をかけまいと
父なりに頑張ってくれているのをみると、草子も元気が出て仕事に励むこと
が出来た。
「結婚してくれたらいいといつも思っていたけど、母さんが亡くなってみると、
草子がいてくれて本当によかったよ」父はよくそう言って小さく笑った。
「ねえそうでしょう。お父さんのことは私に任せて、安心していていいのよ」
草子も心からそう思っていた。
 経済的にも案ずることは何もなかった。父と娘、二人の穏やかな生活が
ずっと続くはずだった。ところが昨年の秋、父が転んで大腿骨を折った。
 入院して手術、リハビリと約四カ月の療養が続いた。その間草子は時間
の許す限り父に寄り添い励まし続けた。幸い父は車椅子を使いながらだが
自分で歩けるまでに回復してくれた。
 退院して我が家での生活にも少し慣れ、草子もこれなら何とか又二人で
やっていけると思い始めて一カ月が過ぎた頃、父が話があると言った。
 父は病院に居る時から医師や、担当のケアマネージャらと話し合い退院
後は施設に入ることを決めていた。
 もう草子のために何の手助けも出来ない。足手まといにはなりたくないの
一念だった。家からそう遠くない所に父の気に入った施設が見つかった。
 父がその決心を草子に話した時、彼女の知らぬ間にすべての手続きは
終っていて、後は草子の同意があればいいだけになっていた。
思ってもいなかったことだった。草子は静かに話す父の顔をじっと見つめた。
すぐには言葉が出なかった。
「すまないなあ、何の相談もせずに決めてしまって。」申し訳なさそうに父が
言った。父の気持ちは分かりすぎる程分かったけれど、草子には納得でき
なかった。
 「たった二人の家族じゃないの、父と娘だよ。私は今まで一度だってお父
さんのこと面倒みているなんて思ったことなかった。これからだって少し足
が不自由でも二人の生活が変わることなんてないんだから。この家にたっ
た一人ぼっちでいる私のこと、本当に考えてくれたの?」
 言いたいことはいっぱいあったが、草子はそれを言葉にすることは出来
なかった。ただ草子のことだけを思う父の深い愛情が胸底にずしんと響い
て溢れそうになる涙をぐっとこらえた。
「お父さんあまりに突然のことで私今混乱しているの。だって私はいつまで
もここでお父さんと一緒だと思っていたから。でも一生懸命私のことだけ考
えてくれたお父さんの気持を大切にしたいから。分かったわ。お父さんの
いう通りにしましょう。」父の顔がほっとゆるんだ。
「有難う。草子ならきっと分かってくれると思ったよ。なーに別れるったって
すぐ近くなんだから、会いたい時はいつでも会えるんだよ。」自分に言いき
かせるような父の口調だった。
 こうして昨年桜が咲き始めた頃父は「あけぼの園」に移った。
 一人になった草子は初めの頃何度も、朝「お早う」と言いかけて苦笑した。
残業で遅く帰っても灯りのついていない家、最初の頃はペットで涙にくれた。
寂しくてどうしょうもなく、車に飛び乗り父のもとへ行ったこともあった。
 父はいつも笑顔で草子を迎えてくれた。同じ想いの父は自分がここで、ど
んなに安らかな日々を過ごしているかを語り草子を諭した。
 父が元気で明るく毎日を送っていてくれると思うと草子も安心し、いつしか
一年が過ぎた。
 その間草子は圭吾という素敵な男性に巡り会った。彼女の前に今までと
は違う新しい別の道が開けたのだ。

 「あけぼの荘」はクリーム色の外壁がモダンな二階建で、敷地が広く手入
れの行き届いた園庭に四季の花々が途切れることはなかった。
入居者は二十人あまり、職員の手を借りながらだが自分で生活できる人た
ちで、明るい雰囲気がただよっている。
 父の個室は十畳くらいでペットとソファがあり、隣に小さなキッチンとトイレ
がある。草子は毎週土曜か日曜こはこにきてたっぷり一日を父と過ごす。
 父は休日くらい自分のための休養に使いなさいと言いながらも、草子が
来るのを心待ちしていることは、その笑顔が教えてくれる。
 玄関に車椅子の父がいた。「今日はいい天気だなあ、もう来る頃だと今
来たところだよ」「お父さん元気そうね」言いながら草子は車椅子を押して
父の部屋に入った。持ってきた赤と黄色のチューリップを出窓にかざると
「お父さん春でしょう。今日は外に出かけましょうよ。」と笑いかけた。
 八十三歳の父の顔がパット明るくなった一瞬を草子は見逃さなかった。
頑張っていても、この家から外に出ることのない父の毎日を思って草子は
少し胸が痛んだ。
 二人はいつものようにこの一週間の出来事を話合う、父もここにきてから
又始めたハーモニカが少しは上達したが、年のせいか中々息が続かなくて
と笑った。草子も会社でのこと、そうそうこの頃では圭吾のことも話すように
なっていた。思い切って二人で汽車の旅をした話をした時は、父は本当に
嬉しそうに、うんうんと聞いてくれた。その様子を見て草子もほっとした。
 午後からは外に出た。今まさに春爛満、車の窓を少し開ければはいって
くる風も心地いい。草子はすぐに父の好きな演歌を小さく流した。
 四、五十分も走ると郊外にある母の眠るお寺に着いた。月命日には必ず
草子がお参りするので、花もきれいに供えられている。
 父がゆっくりと母の墓前に立った。じっと手を合わせている姿を見て、草
子はやっと気が付いた。父が母の大好きだった濃い茶のジャケットを着てい
ることに。
 胸がジーンとなった。もう何十年も前に父と母が二人で撮った写真。その
時の母の弾んだ声が甦って来た。「草子、馬子にも衣装、ってこのことよね。
見てお父さんのカッコイイこと。わたし...」後は言わなかったが草子は思った
この年になっても二人は仲のいい夫婦、その娘の私は幸せ者だ。そしてふ
と自分もいつかそうなりたいと。
「お母さんお父さんていつまでもカッコイイよね。」草子も長いこと手を合わ
せていた。
 日が傾きかけた頃あちこちで花を見て少し疲れた二人はわが家に帰った。
昨日から草子が心をこめて作った、父の好物が並ぶ食卓で、久し振りに親
子二人の楽しいくつろいだ夕食だった。「おいしいね、おいしい。」そんなに
食べられないのに父は嬉しそうだった。
 「有難う草子、今日は本当に楽しかったよ。思いがけず家で二人でご飯た
べられて、ああまたひとつ母さんに冥途の土産話が増えたよ。」
 草子はこんな父の顔を、いつまでも見ていられるように、これからも時間
の許す限り父と一緒に過ごそうと思った。
 春の宵のやさしい風が、二人の窓に桜の花びらをそっと散らしていった。


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平成シニア物語  春隣  終章 [平成シニア物語]

 行く先はもう決めていた。電車で二時間足らずの大きな川のある城下町だ。
最近史実に基づいて昔のままに再建されたお城が話題になっていた。
 約束の日曜日駅で待ち合わせた。
草子はモスグリーンのセーターにジーンズ、白いダウンコートを着ていた。
いつもジャージ姿しか見たことがなかった圭吾には、その姿が新鮮だった。
 圭吾は出かける時は、着る物はいつもゆきが選んでくれたのを思い出して
彼女の好きだった黒のセーターにジーンズ、茶のジャケットで出て来た。
 草子もそんな圭吾をおしゃれで素敵だと思った。
「おはよう、良い天気でよかったね」「おはようございます。本当、楽しい一日
になりそうですね。」お互いに明るく挨拶を交わした。
 駅を出て三十分も走るとすぐ右手に海が見えて来た。藍色にかすんだ島々
も手にとるように見える打ち寄せる波も今日はやさしい。
 十数人の客を乗せて、たった一輌の電車はのんびりと走って行く。
反対側の窓からは白く優しい水仙の群生が、しばらく目を楽しませてくれる。
 「まあきれいな水仙。」そう言って外に見いっている草子を圭吾は見ていた。
「私電車なんていつから乗ってないかしら。この頃はどこへ行くのも車てしょう。
だから、今日は本当に楽しみにしていたんです。いいなあ」草子は目を細めて
嬉しそうに言った。
「急行ならもっと早く行けるのだけどあえて.....こういうのも旅をしている気分
になれるでしょう。」圭吾は自慢げに大きな声で言いながら、ふといつも隣に
ゆきを乗せていたあの車では行きたくない気持ちがあったことを思い出した。

 到着した街にはお城の人気もあってか思っていたより人が多かった。
駅からまっすぐお城に行くことにして、二十分余りの道を歩いた。
 この季節にしては暖かいと話しながら歩いていたが、大きな川に架かる橋
の上はさすがに風が冷たくて、二人とも首をすくめて苦笑した。
 しかし滔々と流れる川の水は真下は深い藍色に、下流は淡い青色に光り
小さな水鳥が水際に群れている様は、何とも美しくて二人は何度も足を止め
て眺めた。
 お城に続く坂道を登り切る頃にはうっすらと汗も滲んで来ていい気持ちだ。
庭内にある梅や桜のつぼみはまだ固く、冬枯れた景色の中に堂々と建つ新
しいお城はなかなか立派だった。
 城内に入ると足元から寒気が襲ってきたが、気持ちが引き締まる思いだ。
新しい木の香りが辺りに漂いゆったりとした気分になれた。
 二人は城が出来るまでの説明やお城の模型など、沢山の資料を熱心に
見て回った。そんな草子の様子をみて圭吾は彼女もこういうことに関心があ
るのだとほっとすると同時に大い満足だった。
 
 天守閣からは街が一望出来た。目の下に青く光りながら川が蛇行して流
れ、ずっとその先に海も見えてその手前を走る玩具のような電車も見えた。
「ねえっあれ見て! 」その電車を見つけた草子が子供のように声をあげた。
「一時間に一本くらいしかない電車が見えたなんてラッキーだね。」圭吾も
つい嬉しくなって、何かいいことがありそうな気がしてきた。
 心ゆくまでお城にいて二人は街に下りた。圭吾は友人に聞いてきた評判
の和食の店に草子を案内した。今まで二人でゆっくり会うことなどなかった
ので、今日は食事をしながらのんびりしたいと思っていた。
「いいお店ですね。」「友だちに教えてもらったんです。古いけど料理はおい
しいって」
 次々に運ばれてくる料理を、美味しそうに食べる草子を見ながら圭吾は
なんだか胸が熱くなった。
「おいしいですか」「まあごめんなさい。私食べてばかりで、だって本当に
どれも美味しいのです。それによく歩いたからお腹もすいていたんです」
草子は照れて笑いながら「ここ昔ブームになった頃一度来たことがあった
のだけど、この年になってみると前には気ずかなかったいいところが沢山
あって、心が落ち着く良い街ですね。」と圭吾を見た。
「気にいってもらってよかった、少し街を歩きましょうか」
 二人は外に出た。もう何十年も前、この街が人気テレビドラマの舞台に
なり、全国から大勢の人が押し寄せたことがあった。ブームは去っても、
今もその名残のヒロインの名前の通りがあり、銘菓「しぐれ」を商う老舗や
レトロな喫茶店、夏には鵜飼い、秋にはいも炊きなどの古くからの行事も
あって、旅館やホテルも並んでいる。
 圭吾は草子に言いたいことがいっぱいあるのに、その言葉が浮かんで
来ないじれったさを感じていた。
 草子も同じ思いだったが、何となく幸せな気持ちだけで満足している自
分がいて、二人は黙って肩を並べて通りを歩いた。

 二人が帰って来た時にはもうすっかり陽は落ちていた。圭吾はこのまま
一人の家に帰りたくなくて小声で「食事にいきませんか」と誘った。
草子は驚いて一瞬圭吾の顔を見てからきっぱりと言った。
「有難うございます。嬉しいけれどもう充分です。今日一日で私一生分の
幸せを味わった気がします。本当に楽しかった。有難うございました。」
草子は深々と頭を下げた。その途端涙がこぼれ落ちた。思いがけない
涙だった。と同時に胸が痛くなるほどの寂しさがどっと彼女を襲った。
草子はゆっくり顔を上げた。辺りのほの暗さに圭吾が草子の涙にきづく
ことはなかった。
 それなら送って行くという圭吾に草子はもう一度最敬礼をして帰って
行った。
 男らしくなかったかなあ、心の隅で少しの反省と、せめて無理にでも送
って行くべきだったという大きな後悔が圭吾の中でせめぎ合った。

 圭吾は帰るとすぐゆきに「お土産」と言って、しぐれを供え「ただいま」の
挨拶だけした。
 圭吾は今夜一人で飲むお酒が、何故かいつもより美味しい気がした。
それなのに胸の奥の方にわだかまっている何かがその美味しさに水を
さした。
 今日一日の草子の楽しそうな様子が目に浮かんだ。それと同時に別れ
際の彼女の言葉がはっきり甦って来た。
 そうだ自分も楽しかったではないか。ゆきかいなくなって....初めてだ。

 「さあ明日も元気で歩くぞ! 」圭吾は声に出してそう言った。
 草子もきっと来る。
 伏し目がちに、それでも笑顔を絶やさなかった今日一日の草子の姿が
しっかりと圭吾の眼裏にあった。

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平成シニア物語  春隣  1 [平成シニア物語]

 陽が昇り始めた頃圭吾はいつものように家を出た。約一時間のウォー
キング。
 三年前妻のゆきを亡くして一人になってから始めた。
一年位は悲しくて、寂しくて身の置きどころもないほど辛く、よく泣いた。
雨の日や、人と会うこともなく過ぎた一日の夕暮れ時など、男のくせにと
思いつつゆきの椅子に座って涙を流した。
 歩きながらもよく泣いた人に会っても帽子を目深にかぶっているので
気づかれることもなかった。泣いていれば何故か心が落ち着くこともあ
った。
 圭吾が働き続けた製紙会社を定年退職して、さあこれからという時
二つ違いのゆきは交通事故で、あっけなく逝ってしまった。
 その朝二人でコーヒーを飲みながら、今まで仕事一筋できたので、
これからは二人で第二の人生を楽しもうと話したところだった。

 圭吾は二十八の時上司に紹介されてゆきに会い、二人はすぐに意
気投合して結婚した。
 ゆきは三人姉妹の真ん中に育ち、心根の優しい女性だった。
 二人のこれまでの人生は穏やかで、二人の男の子にも恵まれ、今
はそれぞれ結婚して、幸せな家庭を作っていて孫も三人いる。
 お互いの両親を見送り、圭吾とゆきはこの円満な人生がいつまでも
続くと信じていた。
 圭吾はゆきがいなくなって初めて自分達夫婦が、いつの間にか空気
のような存在だったのだと悟った。空気がなくては人は生きていけない。
突然崩れ去った圭吾の平穏な生活は、もう二度と取り戻せないのだ。

 もう三十分は歩いたろう。辺りはすっかり明るくなって、風は冷たい
が今日もいい天気だ。
 公園の水飲み場まで来ると、にこにこ笑顔で草子が待っていた。
「お早うございます。」大きな声で挨拶をする。「はいお早う。」圭吾も元
気に挨拶を返す。
 半年ほど前二人は同じ時間にここで会うお互いに気づき、草子が先
に声をかけた。この公園を出て自宅に戻るまでの三十分、二人の家の
方角が同じだったことにも圭吾は不思議な縁を感じた。そしてごく自然
に親しくなった。
 歩いているうちにお互いのことも話すことになり、草子が独身でずっと
勤めた会社もあと数年で定年退職になることも知った。
 郊外の老人施設に父親が健在で、一人っ子の彼女がその面倒をみ
ていると聞いた時は、そんな風に見えない草子の明るさを、不思議に
思った圭吾だった。
 草子は突然妻を亡くして落ち込んでいる圭吾の気持ちを思ってか、
そういう話からは遠い、自分の趣味の絵手紙や音楽の話をした。
この頃では 二人に特別の感情はなかったが、お互いの存在がお互
いを元気付けていることは、それぞれが実感していた。
 でも朝のウォーキング以外に二人は会うこともなく半年が過ぎた。
 圭吾はいつか草子を食事にでも誘ってみようかと思い始めていた。
 しかし、仕事と父のことで忙しい草子を思って、今までは遠慮していた。
圭吾はベンチに座ると草子に言った。「草子さん初めて会ってもう半年
になりますね。貴女の都合のいい日に一日、どこかへ出かけませんか。
いい空気吸って美味しいものでも食べたいなあ....とこの頃僕思うように
なったんですよ。」
 じっと聞いていた草子の顔がぱっと明るくなった。「ええ? 本当です
か。嬉しい。そんなこと考えたこともなかったから。」そう言って笑いなが
ら立ちあがると圭吾に丁寧に頭を下げた。その様子がおどけているよ
うに見えて圭吾は変な気がした。
「からかわないで下さい。」草子が強い声で言った。さっきの笑顔は消
え白い冷たい顔がそこにあった。
 圭吾は驚いた。何か言おうとする彼を制して草子が言った。「柴田さ
ん私のことが可哀そうになったのでしょう。女一人で何の楽しみもなく
生きて、こんなおばさんになってしまった私のことが。」圭吾はあっけに
とられて草子を見た。そんな風に思ったことは一度もなかった。
若々しくて知的で女性としての魅力いっぱいだったからこそ、今日の
この言葉になったのに。
 考えてみれば圭吾の職場にも独身女性は何人かいたが中には年を
経るにつれて自分の殻に閉じこもり、若い頃の素直さがなくなったよう
に感じた人も確かにいた。
「草子さん残念だなあ。僕があなたのことをそんな風に思っている...と
ほんの少しでもおなたが感じていたとしたら、僕本当に情けないです。」
 聞いていた草子の顔がくしゃくしゃになり、両手でおおった。ごめんな
さい喘ぐように言うと倒れこむようにベンチに座りこんだ。
 太陽がすっかり顔をだし辺りの木々の間から、清々しいあさの光が冷
気とともに溢れていた。
 しばらくして草子は顔を上げるとまっすぐに圭吾をみた。
「ごめんなさい。私って本当にいつの間にこんな嫌な人間になってしま
ったのでしょう。自分でも気がつかない内に世間を拗ね、自分本位で人
の善意がわからない最低の人間に。」「そんなことないですよ。でもさっ
きは少し感情的になっていたかな」圭吾はそう言ってやさしい眼差しを
草子に向けた。
 これまでの草子に圭吾の知らないどんな辛いこと、悲しいことがあっ
たのだろう。この生きにくい社会を一人で頑張り、親の面倒も見て来た
のだ。多少ひがんでまったとて不思議ではない。一見元気で何の屈託
もなさそうな草子の心の奥を見てしまったような気がして圭吾は胸が
痛んだ。
「今朝のことはこれでお終い。さっきの話だけどどうですか」「ごめんな
さい私本当はとても嬉しくて。よろしくお願いします。」「はい。それでは
決まりですね。行く先は僕に任せて下さい。明日の朝またここで。」
 二人は立ちあがった。いつもより三十分ほど遅くなった帰り道を二人
は幸せな気持ちで歩いた。
 圭吾は家に帰りつくと、いつものように仏壇の前に座った。蝋燭に灯
をともし、線香を焚く。かすかな香りがふっと流れる。遺影のゆきは今
日もやさしく微笑んでいる。圭吾はいつもより長く手を合わせていた。
「お母さんお早う。今日も元気に歩いてきたよ。もうすぐ春が来そうな
いいお天気だ。」圭吾は立ちあがりかけてもう一度座りなおした。
「それから一つ報告。今朝も草子さんに会った。そして一日どこかへ
遊びに行きましょうと誘ったんだ。彼女も快くОKしてくれたからね。
行っていいよね。」心の中で呟きながら圭吾の想いは少し複雑だった。
 真面目な圭吾は結婚してからはゆき一筋、お互いいい夫婦だと思
っていた。今もそう思っている。だからゆきは草子のことも、きっといい
友だちが出来てよかったと理解してくれていると思いたかった。


 
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